第一章:青い海の先、見知らぬ波紋
海沿いの静かな暮らし
2007年の初夏。キラキラと海面が輝く青い海を見つつ、貴男は自分の小さな文具店に向かっていた。
東北のとある町、少し寂れた風情がありながらも、独特の静けさと安定感がある。
毎朝早く、海沿いの市場では元気なセリ声が響き渡り、活気を一息に感じさせてくれる。
町の古びた商店街にはシャッター通りが目立ち、少しずつ時代の変化を感じさせていた。
貴男は43歳。
一見すると平凡な、真面目で地味でおとなしい男だ。
彼が経営する文具店は小さな店だが、地元の企業や学校に商品を卸している。
業務用の軽自動車で得意先を回り、一日を過ごす。
静かながらも充実した日々。
しかし、そんな彼の心には深い傷が刻まれていた。
2年前、愛する妻を乳がんで亡くしたのだ。
その痛みが時折彼の胸を刺す。
しかし、生きることには止まることが許されない。
年老いた両親は年金生活で、貧しさとは言え、家族の生活を支えなければならない。
そんな重圧とともに、しかし幸せさも感じながら、彼は毎日を過ごしていた。
そんなある日、貴男のもとに突然の訪問者が現れた。
旧友の康男だ。
康男と貴男はかつて同じ学校に通っていたが、彼はこの過疎に近い寂れた町を離れ、比較的人口の多い仙台へと旅立った。
しかし今、康男は貴男の前に、新たな職業、先物取引業者のセールスマンとして立っていた。
康男の勤める先物取引会社は営業ノルマが厳しく、彼は旧友である貴男に目をつけて先物取引の勧誘を始めた。
それは貴男の地味で安定した生活を脅かす存在だった。
「さあ、貴男。ガッツリ儲けて俺と一緒にもっと大きな世界を見てみないか?」
康男の言葉が貴男の日常に風穴をあける。
今までとは違う波が、静かな生活の海面を乱すように押し寄せてくる。
そして、その波が穏やかな生活に新たな波立ちをもたらす。
「大きな世界って、具体的には何だ?先物取引とか、よくわからないんだよね。」と、貴男は康男の提案に首を傾げた。
その言葉には、遠い都会での喧騒から逃れてきたような静かな反骨心が感じられた。
しかし、康男は笑った。
そして彼の口からは、先物取引の可能性、それがもたらす利益、そしてそれが生活を豊かにするという言葉が溢れ出した。
それはまるで、遥か彼方から聞こえてくる都会の誘惑のようだった。
「お前の両親のためにも、もっと良い生活を提供できるようになるんだ。この町を出る必要もない。ただ、投資をして、収益を得るだけさ。」
康男の言葉は一見、誠実さを感じさせるものだった。
しかし、それは貴男の今までの穏やかな生活を根底から覆す危険性を孕んでいた。
貴男は深く考え込む。
これまでとは違う道への一歩を踏み出すことに、自然と躊躇いが生まれる。
しかし、妻を亡くし、老いた両親を支える生活には、ひとつの壁が立ちはだかっていた。
次の章に続く…。
第二章:変わりゆく波紋
貴男の小さな文具店は寂れた商店街にポツンと存在していた。
その商店街では、近くの八百屋から店主の威勢の良い声が聞こえ、それがいくらかの元気を届けてくれた。
貴男はその店で文具の買い物に来た地元の小学生を相手にしていた。
子供たちの無邪気な笑顔と喜びは、貴男にとっての小さな光だった。
日が高くなり、貴男は今日もポンコツの軽自動車に乗り、得意先に文房具を卸しに出かける。
いつものように仕事を終えると、車を止めて丘の上から綺麗な海を眺める。
波の音が心地よく、時折鳴る鳥の声が耳に心地よく響いていた。
いつも配達を終えた後に海を眺めるのが貴男の日課であった。
そんなある日、海を眺めている最中に携帯電話が鳴った。
視線を落とすと、映るのは康男からの着信である。
康男の勧誘はしつこく、貴男はやんわりと断っていたが、それでも彼は何度も貴男の元に現れた。
ついに、貴男は根負けし、嫌々ながらも先物取引の口座を開設し、口座に現金50万円を入金することにした。
しかし、貴男は胡散臭いと思っていた先物取引に手を出すことはなく、そのまま放置していた。
しかし康男から「大豆」の買いを促す電話が何度も来た。
それは先物取引のセールスマンにとって、取引手数料が営業成績になるからだ。
連日の電話攻撃に根負けして、貴男はついに先物で大豆を買うことにした。
2日後、康男から電話が来た。
「先日買った先物の大豆は2日で12万の利益が出ている」。それを聞いて貴男はびっくりした。
ネット口座の管理画面を見ると、確かに12万円以上のプラスになっていた。
その後も康男からのアドバイスに従い、大豆やトウモロコシ、コーヒー豆、ガソリンなどの先物を買っては利益確定を繰り返す日々が続いた。
その結果、口座残高は100万円を超えるほどに膨らみ、貴男は先物取引で大儲けし、一時は有頂天になった。
しかし、一方で複雑な気持ちも湧いてきた。
「今まで地味に生きてきた文具店を経営していた自分が、一体何だったのだろうか?」と。
そして貴男は次第に先物取引の世界にのめり込んでいった。
一方で本業である文具屋の仕事は次第におろそかになっていった。
貴男は閑散とした文具店をほったかし、自分の部屋に籠り、日々パソコンのモニターで先物取引のトレードにハマっていた。
海を眺める時間も減り、生活は完全に先物取引に支配されていた。
はじめての投資で大きな利益を得た喜び、そしてその裏側にある混乱と疑問。
「果たしてこれでいいのだろうか?」 その疑問が貴男の心を揺さぶった。
しかし、わずか1カ月位の短期間で新たに得た大金と快感は、彼を更に深い先物取引の世界へと引き込んでいった。
次の章に続く…。
第三章:変貌、そして浮き世への誘惑
今日も青く澄んだ海は、無数のダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
その海面を無数の船が切り裂き、波紋を描いていく。それはまるで一つの絵画のようだ。
しかし、その美しい光景をながめる者はいなかった。
ある者は薄暗い部屋の中でコンピュータの画面に映し出される線を追いかけ、一筋の汗を流していた。
貴男はかつての彼ではなくなっていた。
一日中、家の中で先物取引の画面を見つめ、世界の相場と格闘していた。
先物取引での連戦連勝により、彼はすっかり自分が取引の達人だと勘違いしていた。
「もう先物取引で生活できるどころか、贅沢な生活が出来る!」
・・・そう確信するに至った貴男は、本業である文具店をほったらかしにし、更に得意先への納品も遅れがちになっていた。
心配した両親からの忠告も、彼には全く届いていなかった。
「世の中上手い話なんて無いんだよ。地味に本業を真面目にやりなさい」と彼らは言う。
しかし貴男の耳には、その言葉が届いていなかった。彼の目は、モニター上の線と数字にしか向けられていなかった。
そしてついに、貴男の口座には1000万円以上の利益が入る。
地味な商売をしてきた彼にとって、それはまるで宝くじにでも当たったようなものだった。
ますます増長した貴男は、あまり儲からない本業の文具店への情熱が冷めて開店休業の状態に。
新車のベンツを買い、高級腕時計を買い、高級ブランド品をいくつも買う始末。
ただでさえ地味な田舎町である貴男の地元では、ピカピカのベンツやブランド品を沢山見に付けた貴男の姿は目立つように。
一昔前なら、地元の子供たちが目を輝かせて彼の文具店を訪れ、楽しい時間を過ごしていたのだが、今では彼の店に子供の笑い声は聞こえない。
以前は貴男が文具店の店頭で文具の話をして笑い声をあげていた子供たちも、彼の姿が最近見かけられず、何かが起きていることを感じていた。
その代わりに、文具店には似つかわしくないスーツ姿のセールスマンが出入りしていた。
外車のディーラーから来たセールスマンで、彼は貴男が注文した新車のベンツを納車にきていた。
ここまでが貴男の成功の一面だ。
しかし、その裏側では彼の生活は荒れていった。
先物取引で手に入れたお金で、贅沢をするようになった貴男は、次第に本来の生活から逸脱していった。
東北の過疎化した地元の街にはキャバクラや高級クラブは無い。
それでも、貴男は週に三日は仙台やその他の少し栄えた地方都市の夜の街に出かけていた。
そして、そこで酒と女に溺れる日々を送っていた。
真面目で地味に貧しく生きてきた貴男が、今、何をやっているのか。
周囲の人々はその変化に驚きを隠せなかった。
しかし、貴男自身はその変化を楽しんでいた。鬱憤が堰を切ったように私生活が崩れ去っていく中、貴男はますます先物取引に熱を上げ、世界の相場と戦い続けていた。
そして、一体彼の未来はどうなるのか。
あるいは、貴男自身が何を望んでいるのか、その答えはまだ彼自身にもわかっていない。
これまでの平凡な日々とは違い、新たな世界に足を踏み入れた貴男の心の中には、興奮と不安が混ざり合い、新たな一日が始まろうとしていた。
第4章に続く・・・
第4章:幼馴染みの女
週末の金曜日、仙台国分町のキャバクラ街で貴男は夜を楽しんでいた。
彼の地元は過疎化が進んでおり、この国分町の賑やかさは彼にとって新鮮で、何より心躍らせていた。
自慢のベンツで仙台まで片道2時間かけて運転していき、週末は仙台の夜の街で飲んだくれの夜を過ごす。
酔い冷ましに仙台のシティホテルに泊まり、朝のチェックアウトに地元に戻る・・・・毎週そんなルーティンを繰り返す貴男。
今夜も若くて綺麗なキャバ嬢に囲まれてチヤホヤされて浮かれている貴男。
何件もキャバクラ店をハシゴして午前様は当たり前。
彼の宿泊先は仙台の高級シティホテル、ウェスティン仙台。
仙台の夜景を一望できるその部屋は彼のステータスを示すように豪華な装いだった。
宿泊ホテルには、キャバクラで口説いた若い女が一緒に寝泊まりすることも。
それが貴男の毎週の行事であった。
しかし、それらは一夜の夢であり、朝が来れば全てが消え去る。
ただ、それでも彼には酒と女という甘い誘惑から逃れることはできなかった。
そんなある日の朝、ウェスティン仙台をチェックアウトし、ホテルのロビーを出ると一人の地味な女が立っていた。
その地味な女は貴男がよく知っている女だ。
学生時代の幼馴染みの敏子という女だ。
幼少の頃から一緒に遊んだりして、とても仲の良かった。
敏子は貴男と同級生で同じ43才。
15年前に結婚をして東京に移住したが、旦那と姑と仲が上手くいかず結婚後3年で東北の田舎に出戻ってしまった。
今は敏子の実家の稼業である和菓子屋の手伝いをしている。
「おぉ、敏子ちゃん久しぶり!どうしたんだい?こんなところで」と貴男。
「貴ちゃんのお父さんとお母さんが心配しているわよ!」と敏子。
そう敏子は貴男の荒んだ生活を心配してわざわざ仙台までやってきたのだ。
その声は暖かく、しかし一抹の憂いを含んでいた。
「ははは!相変わらずお節介だね(笑)敏子ちゃんの心配性でお節介なのは昔から変わらないね。あっそうだ、近くに美味しいお店があるんだ。一緒にランチでもどう?おごるよ」と貴男。
彼は敏子の心配を一笑に付してみせた。
しかし、その背後には、彼女に対する優しさと、昔の彼女への気持ちが混じり合っていた。
少しお洒落な洋食レストラン。
貴男と敏子はランチを食べながら談笑していた。
ランチを食べ終わりお互いコーヒーを飲みながら積もる話は尽きない。
お互いが過ごした時間、変わったこと、思い出す昔話。それらは心地よい響きを持って空間を満たしていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
「貴ちゃん、こんな荒れた生活は貴ちゃんらしくない!両親も心配しているしもう止めたら?」敏子が切り出してきた。
彼女の声は鋭さを帯びていた。
それは、彼の今の生活を止めさせるだけでなく、昔の彼に戻るようにとの切実な願いでもあった。
「何を言ってるんだ!?今の僕は順風満帆。もう以前の地味な生活なんて戻ろうとも思わないよ」と貴男は反論した。
しかし、彼自身もその言葉が自分を騙すためのものであることを理解していた。
「今は上手く行っているかもしれないけど、先物取引なんてギャンブルと一緒でしょ?昔、担任の先生が先物にハマり破産をしたのを知っているでしょ?貴ちゃんがいつか同じようになってしまうのが心配で・・・」敏子は涙を浮かべてうつむいた。
実は彼女は貴男の事を昔から密かに好きで恋心を抱いていたのだ。
しかし、彼女の感情を貴男が受け取ることはなかった。
貴男が別の女性と結婚をしてしまい、ショックで寝込んでしまった敏子。
その後、彼女も東京の男性と結婚して、貴男を忘れるために逃げるように東北の地元を去った。
しかし貴男の妻は乳がんで死んでしまった。
程なくして敏子も離婚をして東京から地元に戻ってきた。ふたりの運命は再び交わり、彼女は再び彼の前に立っていた。
「敏子ちゃん、本当に心配無用だよ!僕に限って先物でそんなヘタを打たないさ!これからは僕はもっとビックになる!地味な生活をしていた僕にようやく日の目を見る事が出来たんだ!大丈夫だよ。それにしても敏子ちゃんは昔から優しいね」と貴男は優しくハンカチを差し出した。
しかし、その言葉は彼自身にも不安があり、彼は自分が本当にその道を歩んでいるのか疑問を抱いていた。
その後、ランチを終えてレストランを出る二人。
「車をホテルの駐車場に置いてあるんだ。
送っていくよ一緒に帰ろう。」と敏子に向かって貴男は提案した。
しかし、「ありがとう、でも私はこれから仙台で用事があるから・・・またね」と敏子は優しく断った。
その言葉には、貴男に対する深い思いやりと、自分自身への思いやりが含まれていた。
貴男は敏子の姿が見えなくなるまで見送った。
彼女の姿が小さくなるにつれて、彼の胸には混じり合った感情が広がっていった。
そこには懐かしさ、寂しさ、そして混乱が入り混じっていた。
彼は自分が何を望んでいるのか、何が正しいのかを問い直すために、一人で車に戻り、ホテルの駐車場を後にした。
その日は、貴男の人生に新たな章を刻み始めるきっかけとなった。
この物語はまだ始まったばかりで、貴男のこれからの選択が彼の未来を大きく左右することでしょう。
敏子との出会いが、貴男の人生にどのような影響を与えるのか、それはまだ誰にもわからない。
ただ一つ確かなことは、敏子の言葉が彼の心に深く響いていることだ。
翌週もまた金曜日がやってきた。
貴男は例のごとくベンツに乗って仙台へ向かった。
そしてキャバクラ店に入っていった。
しかし、その週末の彼の過ごし方は以前とは少し違った。
いつも通りのキャバクラのネオンに目を奪われつつも、敏子の言葉が彼の心のどこかに残っていることを感じていた。
敏子の言葉は、彼の荒れた生活の中で、一筋の光を投げかけてくれていたのかもしれない。
その夜、貴男は仙台の夜を堪能した。
キャバ嬢たちの笑顔とシャンパンの泡が、彼の肩の荷を一時的に忘れさせてくれた。
しかし、その胸の奥底では、彼の心は敏子の言葉とともに揺れていた。
夜が明け、ウェスティン仙台を出るとき、彼は無意識に周囲を見渡した。
しかし、敏子の姿はなかった。
敏子と過ごした日々、彼女と笑ったり、泣いたり、怒ったりした日々を思い出しながら、彼は自分が何を望んでいるのか、何が自分にとって大切なのかを考え始めた。
そして、その答えを探す旅はまだ続いている。
ある日、彼は一つの決断を下すかもしれない。
敏子に対する感情、自分の生活に対する思い、それら全てを受け入れるかもしれない。
それが物語の次の章へと続く一歩となるのかもしれない。
「文具店 貴男の物語」の第四章はここで終わりだ。しかし、物語はこれからまだ続く・・・