都市計画の大誤算: 戦後復興から生まれた’通勤地獄’の真相
結局止められなかった「やばい通勤ラッシュ」地獄
通勤利用者が増加し、都市圏の拡大で利用距離は長くなります。
これに対応すべく国鉄は1960年代以降「通勤五方面作戦」に着手。
中央線・東海道線・総武線・常磐線・東北線を複々線もしくは三複線化し、各駅停車と中距離電車を分離することで、1955年から1970年まで輸送力を19.7万人から29.8万人に増やします。
しかしふたを開けてみれば、輸送人員も49.1万人から71.6万人に増加。
混雑率は250%前後で横ばいのままに終わりました。
首都圏の無秩序な拡大に抗ってきた都市計画も、1965(昭和40)年の「第二次首都圏整備計画」で緑地帯が廃止され、東京一極集中を事実上、追認する形となりました。
1970年代以降、東京都の人口は1100万人強で横ばいとなり、その後の人口増加は神奈川、埼玉、千葉が中心となります。
3県の人口は1970年の約1270万人から、1975年に約1537万人、1980年には1708万人へと増加し、バブル期まで増え続けました。
これにより、それまで都心30~40km圏の「国電区間」が中心だった通勤圏が、優等列車や長距離列車が主体となる区間まで延びてしまったのです。
誰が「通勤地獄」を創り上げたのでしょうか?「理想的な都市計画」が失敗に終わるまでの戦後の荒廃した都市の変遷
「通勤地獄」からの脱出プランは戦争前から策定されていました
東京の中心部の鉄道ネットワークは、地下鉄を除けば昭和時代前期に大部分が完成していました。
大正時代、第1次世界大戦、関東大震災後の郊外への移住に伴い、新たな私鉄が次々と開業し、人口が増加し続けました。
その結果、1920年(大正9年)の約370万人から1930年(昭和5年)には約541万人まで東京府(当時)の人口が急増しました。
戦時体制に入ると、軍需景気による人口の集中がさらに進み、1940年(昭和15年)には約735万人に達しました。
鉄道各線は通勤客で大混雑し、日本で初めて「時差通勤」が行われたのも、この戦時中でした。
しかし、戦争末期に東京への空襲が始まると、都心は焼け野原と化し、人口は疎開や避難により減少しました。
戦争終結時、1945年(昭和20年)には人口は約349万人、ほぼ半分にまで減少しました。
鉄道の被害も甚大で、特に1945年5月25日夜の大空襲では、国鉄、私鉄線の駅や車両が大量に焼失しました。
そんな状況の中でも、「帝都復興計画」の検討が静かに始まっていました。
越沢明の『東京の都市計画』によれば、内務省国土局計画課長の大橋武夫は1944年(昭和19年)11月に大規模な本土空襲が開始されたことを受けて、戦災復興計画の必要性を感じました。
そして、「戦争の勝者でも”敗者でも、日本を復興させる必要がある」との思いから、翌年春までに復興計画の大筋をまとめました。
そして、戦争終結直前の1945年8月10日、降伏が間近であることを知った大橋は空襲に対する防空計画を中止し、復興計画の具体的な作業に取り掛かりました。
日本全国が失意と安堵の矛盾した感情で包まれる中で、新たな都市計画は意気揚々と動き始めました。
復興計画の主要なポイントは以下の通りです。
東京が政治、経済、文化の中心であることを認識した上で、大都市の弊害を防ぐために、工業地帯や教育機関を東京圏外に分散させ、都心への一極集中を防ぎます。
都心の周辺には大きな公園地帯を設け、景観を保全しつつ都市の無秩序な拡大を抑制しようとしました。
前述の通り、戦前の20年間で人口が爆発的に増加し、住宅不足、環境の悪化、交通の混雑など様々な問題が浮上していました。
そのため、都心(23区)の人口は「最大でも500万人」に制限し、それ以上の人口は衛星都市や郊外都市に分散させ、都心と各都市を鉄道や道路で結ぶという計画を立てました。
戦後を見据えた「脱・一極集中プラン」の経緯
しかしながら、東京の壮大な復興計画は結果を出すことができませんでした。
連合国占領軍(GHQ)から「敗戦国に相応しくない計画だ」と非難され、東京都市圏を対象とした計画は財政難により、駅周辺の小規模なプロジェクトの集合に縮小されました。
更に、計画のスタートが遅れた結果、焼け野原には既に仮設住宅や市場が立ち並んでいました。
終戦時の現都区部の人口は約278万人でしたが、それから急激に増加し、1947年には約418万人、1950年には約539万人となり、最初の計画で設定した最大値「500万人」をあっという間に超えました。
1955年には約697万人に到達し、この現実を受けて、東京だけではなく首都圏全体の開発計画を定める「首都圏整備法」が制定され、同法に基づいて1958年に「首都圏基本計画」が策定されました。
この計画は戦災復興計画の理念を引き継ぎ、都市機能の分散や10kmの幅を持つ「近郊緑地帯」の設定など都市拡大の抑制が盛り込まれました。
しかし、結果を見ると、高度成長期の人口増加は戦前以上の規模でした。
東京都心から半径10km間隔で区切った区域の1955年と1970年の人口を比較すると、0~10km地帯では409万人から375万人へと減少しましたが、10~20km地帯では402万人から786万人へと急増。
さらに20~30km地帯では175万人から538万人へ、30~40km地帯では166万人から575万人へと、距離が遠くなるほど人口が急激に増加しました。
戦前の都市計画が戦争によって無効化されたように、戦後の首都圏整備計画も高度経済成長の勢いを抑えることはできませんでした。
国が結局止められなかった「やばい通勤ラッシュ」地獄
通勤利用者が増加し、都市圏の拡大で利用距離は長くなります。
これに対応すべく国鉄は1960年代以降「通勤五方面作戦」に着手。
中央線・東海道線・総武線・常磐線・東北線を複々線もしくは三複線化し、各駅停車と中距離電車を分離することで、1955年から1970年まで輸送力を19.7万人から29.8万人に増やします。
しかしふたを開けてみれば、輸送人員も49.1万人から71.6万人に増加。混雑率は250%前後で横ばいのままに終わりました。
首都圏の無秩序な拡大に抗ってきた都市計画も、1965(昭和40)年の「第二次首都圏整備計画」で緑地帯が廃止され、東京一極集中を事実上、追認する形となりました。
1970年代以降、東京都の人口は1100万人強で横ばいとなり、その後の人口増加は神奈川、埼玉、千葉が中心となります。
3県の人口は1970年の約1270万人から、1975年に約1537万人、1980年には1708万人へと増加し、バブル期まで増え続けました。
これにより、それまで都心30~40km圏の「国電区間」が中心だった通勤圏が、優等列車や長距離列車が主体となる区間まで延びてしまったのです。
国は最終的に「混雑する通勤時間帯」を解消することができませんでした。
通勤者が増加し、都市圏が広がることで通勤距離は伸びました。
それに対応するため、国鉄は1960年代から「通勤五方面作戦」を開始し、中央線、東海道線、総武線、常磐線、東北線を二重または三重線にし、各駅停車と中距離電車を分けることで、1955年から1970年までに輸送能力を19.7万人から29.8万人に拡大しました。
しかし、その結果を見ると、輸送される人々の数も49.1万人から71.6万人に増え、混雑率は250%前後で変わらず、改善は見られませんでした。
首都圏の不規則な拡大に対抗してきた都市計画も、1965年の「第二次首都圏整備計画」で緑地帯がなくなり、東京一極集中が事実上認められる形となりました。
1970年代以降、東京都の人口は約1100万人で横ばいとなり、それ以降の人口増加は神奈川県、埼玉県、千葉県が中心となりました。
これら3県の人口は1970年の約1270万人から、1975年には約1537万人、1980年には1708万人に増加し、バブル経済が続くまで増え続けました。
その結果、当初都心30~40km圏の「国電区間」が中心だった通勤圏は、優等列車や長距離列車が主になる区間まで拡大しました。
通勤ラッシュについての管理人の感想や私見
ほら、この通勤ラッシュの話だけどさ、まず思うのは、何でみんなが一斉に出勤しなきゃいけないのかってことだよな。
ずっと考えてるんだよ。何でだろうな、そんな風潮ができちゃったんだ?
明らかに、そういうやり方が既に機能しなくなってるってのが見て取れるじゃん。
人々が増えたら、それに合わせて輸送力も増やせばいいってもんじゃないよな。
だって、それでも混雑率は250%のままだってさ。ずっと同じだってよ、何も変わってねーんだよ。
みんなが同じ時間に通勤することで、都市のインフラがひっ迫する。
そりゃ、電車も道路も満杯になるだろうよ。
だからこそ、もっと柔軟に考えるべきだと思うんだよな。
それぞれが自分のペースで働けるような社会を目指すべきだよ。
リモートワークとか時間差通勤とかさ、そういうのも考えてみたらどうだ?
またさ、都市が無秩序に広がることについても考えなきゃいけないんじゃないの?
それが結果として通勤ラッシュを悪化させてるんだからさ。
一極集中の東京が続けば、その先はもっと混雑するだけだよ。
でもね、何より大事なのは人々の意識の変革だと思うんだ。
一人ひとりが自分の働き方を見直し、それに合わせた通勤方法を考える。それができれば、この通勤ラッシュの問題も少しずつ改善していけるんじゃないかなと。
それが俺の見解だよ。